日本画の歴史5
短くも豊かな時代!
織田信長が足利義昭を追放した1573年から50年にも及ばない短い期間に、
一握りの権力者のために贅を尽くしてつくられたものばかりでなく、
多くの人々を楽しませた素朴なものまで、多彩な造形が花開きます。
狩野永徳・長谷川等伯の絵画や、今はなき安土城など、
天下統一の気運の中、清新で華やかな表現が展開していきました。
狩野永徳
狩野元信の孫で、足利義輝から信長、秀吉と目まぐるしく交代した権力者の信頼を得て、
画壇における狩野派の地位を磐石なものにしました。
《洛中洛外図屏風》(上杉本)山形・米沢市上杉博物館蔵 国宝
右隻に内裏の、左隻に室町将軍邸の年始風景を描いています。
一双屏風に新春が二度訪れれば四季の配列は乱れるが、
そこに独自の構想を認める説が有力とされています。
《唐獅子図屏風》東京・宮内庁三の丸尚蔵館蔵
おそらく秀吉に関係する建物の障壁画の一部だと思われます。
左端の岩や木の枝先は、その先に深山幽谷の景色が広がっていたことを暗示しています。
とぎすまされた個性!
長谷川等伯
能登で信春と名乗って仏画などを描いていましたが、30歳過ぎに上洛し、
雪舟の後継者を自称して等伯と名前を改め、狩野永徳を警戒させるほどの活躍をします。
《松林図屏風》東京国立博物館蔵 国宝
ざわざわとした松の葉や速度のある線で描かれた枝などは、
大徳寺伝来の唐絵の名画《観音猿鶴図》の豊かな水墨表現を学んだものです。
《楓図》京都・智積院蔵 国宝
華やかな色調の紅葉と繁茂する秋草、金雲のシャープな切れ目からは紺青の水面がのぞきます。
常識を覆し、新たな価値観をつくりあげる!
千利休
大阪・堺の中堅の商人でさほど財力をもたなかった利休は、古典を十分学習し、高価な道具に頼らず趣向や新たな点前の工夫、茶室の構え、
そして日常の道具やデザインを積極的に取り入れ、茶のための道具をつくり、つくらせることによって独自の「わび茶」の世界を切り開きました。
《待庵》京都・妙喜庵蔵 国宝
現存唯一の利休作の茶室で、侘びの空間の極致といわれます。
1582年、山崎の合戦に際し豊臣秀吉の命を受け利休が陣中に構えたと伝えられます。
むき出しの土壁、角を塗り回し空間の消失点を曖昧にした広がりを感じさせる室床、少ない窓など、お互いの間合いや息遣いを間近に感じるための工夫が、幾重にも凝らされています。
そこで土の塊のごとき黒楽茶碗を用いたなら、茶碗もまた薄闇に溶け込み空間と渾然となり、茶の味や温もりが直接皮膚を介して伝わります。
利休好みの楽茶碗は総じて左右対称の静かな形をしており、見られることを放棄し、使われることでその存在感を発揮する造形であることが画期的でした。
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